入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈26〉

「それはどういうことかというと、埴輪自身も、朝鮮半島高句麗とか百済という地域の文化と極めてリンクした形で発展したものではないかということです、その埴輪を最初に採用している毛野の首長は保渡田の古墳だと、そんなことを考えますと、かなり渡来系の色彩の強い豪族だということが言えるだろうと思うのです」

「このように、5世紀の後半から6世紀にかけて毛野というのはかなり変質していった、言ってみれば毛野の社会が変わっていったと言っていいのだと思います、その中心になったのは、直接的な渡来系の氏族であったかどうかというのは未だクエスチョンにしておきますけれども、かなりそういう影響が強いと思われます」

「そういう形で、毛野が2つの地域に分かれるという状況が5世紀の後半から6世紀の前半にあっただろうと考えます、その辺を雄略朝との関係でどういうふうに考えるか、これには、武蔵の埼玉古墳群の稲荷山古墳の内容をもう少し検討する必要があると思います、と同時にそのあとに6世紀前半代に出現する横穴式石室古墳も無視できません」