入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈25〉

「八幡塚古墳も人物像はあります、それは中堤の部分に配置されていました、前方部前面に円筒列で方形に区画された区域が設けられ、首長像、首長妃と思われるものを中核に、武人像、御食持女人像、馬子像、狩人像が、飾馬、水鳥、にわとり、猪など共に配置されていました、初期の埴輪人物像の出現期は、関東ではおそらく5世紀の後半期にあったのだろうと思いす、しかも、それらは墳丘の上に立てられていない、墳丘の外に置かれているという特徴があります」

「埼玉古墳群の稲荷山古墳では埴輪人物像は、墳丘西側の周堤に方形の造り出し状の特別に置く場所をこしらえて並べています、初期の人物像の組み合わせを見ると、首長または覡(オカンナギ・神霊と交わる男の呪術師、シャーマン)と言っていいと思われるもの、それに首長の妻と言ってもいいと思うのですが、巫女をあらわしているもの、それに加えて武人、狩人、楽人、力士、御食持ち女人、そういうふうにそれぞれ役割をあらわす人物をかたどって埴輪が配置されたわけです」

「いずれにしましても、その当時の豪族というか、保渡田の二子山古墳ならば、ここに葬られた首長の社会を構成する人々と言いますか、宮廷と言っていいと思うのですが、その宮廷に仕える人たちも含めた状況を埴輪に表す、そういうことが古墳に示されるわけです、その他では馬です、馬は大体飾り馬です、それと鳥、これは鶏と水鳥がいます、それに猪とか鹿、これは狩りの対象になった動物ですが、そういうものが表されています」

「埴輪というのは、ただ単にこういう構成を見ていると、日本だけのものではなくて、例えば高句麗の古墳の壁画に狩猟図というのが表されていますが、あのような宮廷絵巻といってもよいものに通じておりまして、古墳の壁画であらわすのではなくて、埴輪人物群の配置は、首長社会の理想とする生活情景を造形であらわす、そういうものから始まっているのではないかと考えているのです」