2010-05-16 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈24〉 「このような画期が認められる5世紀の後半の時期というのは、毛野の地域ではいろいろな面で変わった状況、文化的な状況があらわれます」 「前述の大陸系の文物、金銅製品、特に馬具類にすばらしいものが副葬品に加わるということがありますが、特に注目したいのは、それと同時に埴輪人物が古墳に配置されるようになるということです」 「埴輪は5世紀の中葉以前にも確かにあります、ありますけれども、円筒形埴輪とか、盾・靭・甲冑・壺、それに加えて家などの器財形埴輪、さらに水鳥や鶏もあるのですが、人物像はまだなかったのです、ところが、5世紀の後半のある時期から埴輪人物像が生まれるのです、そういう埴輪人物像が前方後円墳にあらわれるはどの古墳が古いのかということになりますと、群馬県の場合は保渡田の二子山古墳と八幡塚古墳なのです」 「保渡田の二子山古墳の埴輪というのは、古墳の範囲よりももっと外側から出ています、ですから、前方後円墳の墳丘に立っていたものではないのです、その埴輪を見ると、人物像、動物では犬、猪、馬、鹿もいます、それから家があります、人物を見ていきますと、冠をかぶった正装男子座像、正装女子像、挂甲武人立像、壺を頭にのせる男子像、三角帽の男子立像、盾持ち男子像、力士立像など多種類の人物像です、そういう埴輪人物像が置かれています」