2010-05-15 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈23〉 「一方、毛野の東の地域、すなわち栃木県側はどうかというと、小山市の西北部に摩利支天塚古墳と琵琶塚古墳があります、黒川や姿川が合流して思川となり、その流域に広大な沖積平野がひらける栃木県南部の地域です、この古墳も全長が110mから120mぐらいありますが、そういう古墳が保渡田古墳群とあまり時期をおかずにできるのです」 「摩利支天塚古墳は前方部の前端線がが三角形状に張り出しています、剣先形前方後円墳という説明がそこの案内板には書いてあります、普通の前方部は前端が直線的ですが、これは二等辺三角形状に張り出して尖っている変形の古墳です」 「いわゆる毛野の地域が、1つは井野川流域、1つは思川流域と言っていいと思いますが、その2つの地域に2分極化するという状況があらわれてくるということです、このことこそ毛野が上毛野に分かれていった歴史的な事実を示すものにほかならない、井野川流域、思川流域の古墳はそういう毛野政権の変質を物語っているといってよいのだろうと思います」