入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈31〉

[質疑応答・続]

〇梅澤

「そして、その時期に横穴式石室をもつ前方後円墳が井野川流域圏の周縁地域に出現しています、保渡田古墳群の首長たちの次代の首長は地元を離れて中央に出ていた、大和政権の中枢に仕えるようになっていった、小熊というのは、あえて言えばそうした性格を有する上毛野の有力首長です、そうした地位にある小熊に小杵は今でいう政治的陳情をしたのです」

「しかし、小熊には大和政権の政治的施策を変えさせるだけの力はない、小杵の陳情は聞き置くにとどめ、動かなかった、馬鹿を見たのは小杵、小熊にさしたる罪はない、でも大和政権にあっての政治的な権威は弱まります」

「その小熊が6世紀東国最大の七輿山古墳を造り得たか、疑問です、むしろ、この七輿山古墳というのは古い毛野の本流が復興したというふうに言っていいのではないでか、私はそのように考えたいのです」

「それが復興したのはどういう背景があったかというと、『日本書紀』の安閑天皇元年には武蔵に4つの屯倉ができると記されていますが、その翌年に上毛野に緑野屯倉というのができるのです、それがこの七輿山古墳のできた地域なのです」

「ですから、七輿山古墳の首長というのは、考え方によれば屯倉の管掌者というか、屯倉を管理するような立場にあった豪族であったことは間違いない、小熊の政治力の弱化に乗じて、在地勢力で屯倉を差し出すような政治手腕をあるいは用いて、畿内政権、6世紀の政権と極めてコンタクトを強くした毛野の復興勢力と、そういうふうに言っていいのかなと思います、どうですか、甘粕先生とは違いますか」