入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈1〉

「『武蔵国造の反乱』は、今から24年前、書いたものです、その後、専門家からはいろいろ厳しい批判を受けてきているわけですが、25年たった今でも、まだ問題にしていただけるということで、冥利に尽きる話だなと感謝しております」

武蔵国造の反乱とよくいわれていますのは、『日本書紀』の安閑天皇の元年条に記されている伝承ですが、年代でいえば534年ということになります、その真偽のほどははかりがたい時期のことですけれども、その時期の歴史的政治情勢とリアルに対応する内容を持っています」

武蔵国は古墳がたくさんありまして、田園調布を中心とする多摩川の水系、鶴見川の水系は早くから研究も進んでいます、その中でも館長の西岡先生が戦前からやられていた調査は、古墳を通じて地域史を研究していく原点になるものであったわけです」

「南武蔵では古い時期の前方後円墳が集中しているわけですが、それに対して、古墳時代の後期を中心にして、行田周辺の埼玉(さきたま)古墳群にはこれまた素晴らしい前方後円墳が集中して、武蔵の南と北で対照的な古墳のあり方がそのころ注目されていたわけです」

「私の論文のその時の趣旨は、次の通りでした、まず、武蔵国の国造使主に対して同族の小杵が国造の地位を奪おうとして、上毛野君小熊という北関東の豪族と手を結びます、危険を感じた使主が都に逃亡して、朝廷に訴えて出ます、朝廷は判決をくだして、小杵を誅殺します、使主は大変喜んでお礼のために朝廷に4ヵ所の屯倉を献上したという構想を基にしています」

「この屯倉は横渟、橘花、多氷(多末)、倉樔で、橘花は川崎を中心にした律令時代以後の橘樹郡に当たる地名で、多氷(多末)は多摩郡に当たり、倉樔は横浜を中心にした久良郡の地域と対応して、南武蔵に屯倉が集中的に置かれたことを伝えているわけです」