入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

イメージ 2

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈2〉

「武蔵という領域の古墳分布を見ると、前期を中心にして田園調布古墳群、日吉加瀬古墳群を中心にした南武蔵に、その時期としては関東地方でもトップクラスの前方後円墳が連続的に営まれていました」

「ところが、後期になると南武蔵には古墳が見られなくなって、そのかわり北武蔵の埼玉古墳群、今度はここで武蔵全体の中でダントツに大きな前方後円墳が連続的につくられるようになります、これは、大局的に見て、南武蔵の豪族が北武蔵の豪族と争って没落していったという状況を反映しているのではないかと考えられます」

「しかも、南武蔵のほうは、一連の前方後円墳がつくられた後、中期になると野毛大塚古墳のような今迄の前方後円墳と変わって大きな円墳(当時は円墳と考えられました)がつくられるようになる、そういう大きな変化がありました、野毛大塚古墳は、それまで南武蔵の大きな古墳には見られなかった葺石とか埴輪があらわれます」

「そして、豊富な副葬品があるわけですが、特に滑石製の模造品が豊富で、その中にはご馳走を盛りつけるお膳のようなものとか、飲食を捧げるものとか、お皿のようなものとかがあります、大部分は滑石製刀子で、小刀を模造したものですが、それ以外にこういう非常に珍しい滑石製摸造品のセットがあるわけです、これらの要素はいずれも早くから上野の古墳文化に特徴的なものです」