入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈3〉

「関東でも、上野はいち早く埴輪を使用し始めますし、上野の古墳は早くから葺石を持っていました、野毛大塚古墳の滑石製摸造品とそっくりのセットが、上野の有力な中期古墳の白石稲荷山古墳から出ています」

「そういうことからみて、中期になると南武蔵に上野の影響が強く及んで、しかもそれまでの前方後円墳が円墳に変わる、恐らく豪族の身分にかかわるような関係が変化してくることをあらわしているのではないか、ということが1つのポイントだったわけです」

「そいうことで、安閑紀にある上野君小熊が反乱を起こした小杵を支援したという伝承と対応するのではないか、そして、屯倉が集中的に置かれたのが南武蔵であるわけですから、反乱を起こして朝廷をバックにした力によって鎮圧された、そのような勢力の本拠地に屯倉が置かれるのは理解しやすいのではないか、ということで、小杵の本拠は南武蔵であったのではないか」

「この伝承にある反乱は、そういう点で古墳時代の中期から後期へ移る時期あたりから、南北の対立、背後に上野の勢力、朝廷と三つ巴の関係で事が推移して、その結果、その後北武蔵の埼玉古墳群がさらに発展を続け、南武蔵の方には屯倉が置かれることを反映しているのではないか、以上が当時の私の考えだったわけであります」

「これに対して細かな古墳の盛衰がわかってきますと、一番問題なのは安閑天皇元年紀の6世紀にそういう変動があったとは言えないのではないかということです、南北の勢力の逆転が起こるのは5世紀末頃のことで、銘文のある鉄剣が出たので有名な埼玉古墳群形成のきっかけになった稲荷山古墳の出現がちょうど5世紀の末頃です」

「野毛大塚古墳は5世紀の中葉頃と考えられていたわけですが、それにしても5世紀の後半には南武蔵の古墳は縮小してきています、かつ北武蔵がぐっと力をつけてくるのは5世紀末、そうすると6世紀前半という安閑天皇紀にある時期に、そういう大きな転換、画期を見るのは合わないという重要な指摘がされるようになりました」