入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈30〉

[質疑応答]

〇司会

「今回の演題に『上毛野』という言葉がせっかくありますので『日本書紀』に出ております上毛野君小熊が具体的にどのような人物であったか、甘粕健先生は、小熊の墓は七輿山古墳ではないかとお考えのようですが、そのようなことを含めて想定がございましたら、お聞かせいただけるとありがたいと思います」

〇梅澤

「七輿山古墳は古墳のタイプで言いますとこういうことが言えます、太田天神山古墳という210mも古墳ができます、この古墳は東日本で一番大きいと先程申し上げたところですが、太田天神山古墳が5世紀の中頃の造営です、これに対して、七輿山古墳は6世紀の中頃の造営と考えられます、しかも、その七輿山古墳は太田天神山古墳以降の古墳では、毛野最大で墳丘主軸146m、もちろん東国最大です、その約100年の間に、七輿山古墳の規模を超える古墳は明らかではありません、造られなかったと私は推定しています」

「その時期に位置つけられるのが、保渡田古墳なのです、太田天神山古墳と七輿山古墳の墳丘形態を比較してみますと、おそらく同じ設計技法でプランニングしたもの、即ち同一技術系譜にあるものと考えていますが、七輿山古墳の場合、前方部前端幅が後円部径を大幅に上回る形態です」

「保渡田古墳群の性格については先程申し上げました通りです、井野川下流域の不動山古墳の系譜にあって継起的に前方後円墳を持続したものといえます、毛野が分裂し、上毛野国と下毛野国が成立する、その上毛野国の盟主的な地位を得たのが保渡田古墳群の首長ではなかったと考えます、ところが、保渡田古墳群の後を受け継ぐような6世紀前半代の前方後円墳は井野川流域からは姿を消しているのです」