入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー45

古代の東国は、信濃国上野国との境にある碓氷峠と、駿河国相模国の境にある足柄峠より東の地域で坂東とも呼ばれ、現在の関東地方に相当します

大和政権の支配力の関東地方への浸透を示すものとしてよく知られているものに『日本書紀』安閑元年閏十二月条の武蔵国造の地位をめぐる争いがあります

笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(をぎ)は武蔵国造の地位をめぐって長年争っていました、そこで小杵は、密かに上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)に救援を求め、使主を殺そうとしました、それを知った使主は朝廷に訴え、朝廷は小杵を討ち使主を武蔵国造としました、喜んだ使主は、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の4か所を屯倉(みやけ)として朝廷に献上したというものです

この伝承は、武蔵国の豪族間の争いを示すものですが、その背後には、武蔵国支配をめぐる大和政権と上毛野氏との対立があったことが注目されます、上毛野国には、東国最大(210m)の太田天神山古墳(群馬県太田市)をはじめとして、大型の前方後円墳が多数築造されており、この国を支配していた上毛野氏は、東国では強大な勢力を誇っていた氏族でした

このような上毛野氏と大和政権による武蔵豪族への介入は大和政権側の勝利するところとなり、結局それが大和政権の武蔵国への支配力を強めるとともに上毛野氏の服属化を進める契機となったのです、太田天神山古墳のような巨大な前方後円墳が築かれた上毛野地方でも、6世紀になるとその規模が100m前後にと衰退してしまうのも、伝承と無縁ではないと考えられています

伝承の主人公である笠原氏は、現在の鴻巣市笠原付近を根拠地としていた豪族と考えられており、笠原の近くに位置する埼玉古墳群は同氏に関係があるといわれています、また武蔵国造の争乱そのものについては、屯倉の設置時期など疑問の点も少なくないのですが、5世紀以降の大和政権の東国進出に対して武蔵国で起こった争乱に関する伝承であると考えられます