2011-04-11 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー46 大和政権による地方の支配体制は次第に整備され、推古朝(600年前後)のころには既に国造制(こくぞうせい)が全国的に確立していました、国造とは、大和政権に服属した地方の首長に与えられた称号で、大和政権の地方官的な性格を有し、支配領域の行政権・裁判権・徴税権・祭祀権などを司りました 『国造本紀』によれば、東国には22の国造があったとされていますが、武蔵地方では无邪志(むさし)・胸刺(むさし・むなさし)・知々夫(ちちぶ)の3国造が存在したといいます 无邪志国造は、埼玉郡・足立郡・比企郡あたりをその支配領域として埼玉古墳群を築造した勢力、胸刺国造は南武蔵の多摩川一帯、知々夫国造は秩父郡・児玉群・大里郡を支配領域としたとされています 従って蕨市やその周辺は、无邪志国造の勢力範囲に含まれていたと考えられます また一方では、稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から読み取れるように、5世紀後半には地方豪族が特定の任務を帯びて大王家に奉仕する制度が既に存在していました、そして、大和政権の支配力が次第に地方へと浸透してくると、地方豪族を介して畿内の有力豪族につながる人々が生まれました この人々は部民(べのたみ)と呼ばれました、北武蔵地方には大伴(おおとも)氏につながる大伴部(おおともべ)、物部(もののべ)氏つながる物部、阿部につながる丈部(はせつかべ)などがあります、蕨市やその周辺では、足立郡の丈部、埼玉郡の物部が見られます こうした国造制や部民制などの地方豪族を利用して地方支配の強化を目指したのが屯倉の設置とその経営でありました、東国でも7世紀初頭から屯倉が設置され始めたと思われますが、それは大和政権の生産的基盤となったばかりではなく、地方における軍事的な基盤ともなったのです つまり、屯倉の設置は、国造の支配力を弱め、大和政権の中央集権的支配への道を開くものであったのです