入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈3〉

「もう一度、図Aの東の方へいきますと太田に、東日本で一番大きい太田天神山古墳があります、それを中心にして足利に近い東の方に藤本観音山古墳があります、これは今の栃木県と群馬県の境、かつては群馬県だったのですが、現在は栃木県の方に入っています、この藤本観音山古墳というのは全長が120m近い古墳です、その近くに矢場薬師塚古墳という前方後円墳があります、この古墳も太田付近では古い古墳だと言えます」

「太田付近では、今申し上げた古墳の分布地域の西北の方に鶴山古墳と亀山古墳がありますが、その近くに西を向いて全長60mほどの前方後方墳・寺山古墳があります」

「寺山古墳のあるあたりでは蛇川が利根川の方に向かっています、現在はこの蛇川の下流に米沢二ッ山古墳がありますが、その西にある川が石田式土器の名の由来となった石田川です、この川と蛇川は利根川に合流していますが、寺山古墳とか藤本観音山古墳ができる時代は、蛇川は利根川へ合流しているのではなくて、太田の南を東へ流れて渡良瀬川の方へ流れていたのです」

「現在、この川は米沢二ッ山古墳のところからまっすぐ利根川の方へ入っておりますが、ここは川が台地を割っているのです、ですから人工の川と言っていいと思います」

「あえてこの辺のことを申し上げますと、利根川の北側、太田の南には低い丘陵地帯があって、その丘陵地帯の北側に広い低湿な平野が開けていたのです、その平野も無住の地帯だったのですが、新しく開発するためには低湿な地帯に流れ込んでいる水を排水する必要がありました」

「排水するというのはどういうことかというと、早く利根川の方へ水を抜いてやるということなのです、そういう蛇川のような大工事をやることによって、古墳時代の太田周辺というのは開けていったのだろうと思うのです」

「例えば太田天神山古墳もつくられていったのだろうと、つくられるようになった地域の社会状況といいますか、地域社会が成立したと考えていいと思うのです、太田付近でも、ほとんど無住の地帯に大きな前方後方墳前方後円墳ができたのです」

「更に、東の方に移って見てみますと、これは栃木県側になります、栃木県に渡良瀬川遊水池というのがありますが(足尾鉱害で一村廃村になって遊水池になったのです)、その北の方、栃木県南部から利根川に合流する思川、巴波川(うずまがわ)という川があります」

「その流域の沖積平野に大桝塚古墳ができます、これも前方後方墳で110m位あります、この地域では大桝塚古墳と関連する大きな前方後円墳というのは判っていないのですが、寒川古墳群というのがありますので、その中に大桝古墳を受け継ぐような古墳が出現した可能性はあるわけです」

「以上をまとめて見ますと①井野川の東の元島名将軍塚古墳に代表される地域、②前橋南部の八幡山古墳、天神山古墳に代表される地域、それから太田付近では、その東部の③藤本観音山古墳、矢場薬師塚古墳のある地域と④寺山古墳と八幡塚古墳のある西部の地域、そして栃木県の方へいきまして、⑤大桝塚古墳に代表される地域、これらの5地域は前方後方墳、またそれを受け継ぐような前方後円墳ができた地域です」

「これらの地域を見ていきますと、すべてこの流域の平野を潤した川は利根川に合流している利根川の支流地帯なのです、従って、この地域がいわゆる毛野の中心地域、開発の拠点になった地域だと言っていいだろうと思います」