2010-04-26 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(太田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈4〉 「それでは、毛野の地域というのはどういう地域かというと、次のように考えます、利根川の本流とその支流が形成した沖積平野は弥生時代の後期にはほとんど無住の地帯でした、その地帯に4世紀から後半の頃に前述のような大規模な前方後方墳、前方後円墳が継続的につくられていきました、この地域が毛野の地域だというふうに言っていいだろうと思うのです」 「この地域は、前述のような大きな古墳があるわけですけれども、実際にはどういう人たちが住むようになっていったかという問題が出てくるわけです、これもまた弥生時代のこの周辺の地域のことから考えてみる必要があります」 「利根川が流れてきて、渡良瀬川が入ってくる、さらに思川が入ります、足利、太田、前橋、伊勢崎、栃木、小山、これらの地域が毛野の地域といえるのですが、この周辺地帯の弥生時代の土器文化を見ていきますと、主に次のような分布となります(図A参照)」 「藤岡・甘楽周辺は信州と関係が深いのですが、樽式土器の文化圏です、前橋の東、赤城山南麓周辺あたりに赤井戸式土器文化、群馬県の南、武蔵の特に比企丘陵ですが、吉ヶ谷式土器文化と、それぞれこういう弥生時代後半の土器を使った文化圏が育っていたわけです」 「吉ヶ谷式土器または樽式土器・赤井戸式土器、この赤井戸式土器と吉ヶ谷式土器というのはよく似ている土器ですが、そういう土器を使った人たちがこの毛野地域にはほとんど進出してないのです、ですから、ここは弥生時代の後半はほとんど無住の地帯だったということなのです、こういう所に前述の大形の前方後方墳、前方後円墳ができるのです」 「この古墳をつくった人たちは、いま云ったような土器を使っていた人たちが、ある時にはこちらに入ってきたとも考えられるのですが、実はそうではないのです」 「樽式土器の特徴は、頸部から胴部にかけて波形の櫛目文、または簾状文というすだれのような、櫛で描いた文様があります、また、吉ヶ谷式土器というのは、甕形土器をみますと、胴部から上の方に縄文を幾つかの段で入れているという特徴があります」 「甕形土器というのは今でいうと鍋釜のように、物を煮たりするのに使っているのですが、そのような特徴の土器はこの地域にはほとんど入っていないのです」