入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(太田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅津昭重氏)〈5〉

「この地域に出てくる土器は石田川式土器というものです、太田市の西方に石田川が流れています、この場所から戦後初めてみつかったので石田川式土器といっていますが、この甕形土器は、台付きで口縁はS字形をしているという特徴を持っています」

「こういう台付きS字形口縁の甕は樽式とか赤井戸式、吉ヶ谷式にはない土器です、もし、樽式土器を使っていた人たちが県南平野地域に進出していったならば、当然櫛目文や簾状文系統の土器があっていいはずです、ところがそれはなくて、台付きS字形口縁の変形土器がある時期から突然あらわれるのです」

「そして、この石田川式土器というのが古墳と非常にかかわりが深いということになりますと、こちらは外来系、よそから来た土器と云っていいだろうと思うのです、周辺の地域から開発に向かったのではなくて、かなり離れた地域からやってきた人たちの土器であろうという推定がつくのです」

「それでは、この石田川式土器はどこから来たかということなのですが、弥生時代最終末の土器型式を見ていきますと、東海西部、今の伊勢湾周辺の地域からなのです、こういう石田川式土器の原形というのは伊勢湾周辺の弥生時代最終末期の土器型式に求められるということなのです」

「そうしますと、その土器を使った人たちというのは、今の伊勢湾周辺あたりから毛野と云われた地域に入植したということです、そういうふうにして、毛野の地域というのは4世紀中から後半に成立したと言っていいだろうと思うのです」

「その中心になったのが、先程申し上げました5つの地域に大きな前方後方墳、または前方後円墳を残した首長です、ですから、その首長は開発集団の統率者ということが考えられます、いずれにしましても、そういう形で毛野の地域というのは4世紀代に急激に地域形成が進んだということが考えられるのです」