入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[21]

古墳時代前期において、宝萊山古墳・亀甲山古墳といった大前方後円墳を出現させた田園調布古墳群は、すぐ隣に続く野毛古墳群で野毛大塚古墳にみられるような活発な動きがみられた5世紀の間、古墳は全く造られていませんでした、ところが、6世紀に入った途端、50~60m級と小形ですが前方後円墳が再び築造され始めます

男子形埴輪・馬形埴輪・鹿形埴輪といった形象埴輪と円筒形埴輪が多摩川沿いに並べられていたと考えられる浅間神社古墳を筆頭に、多摩川台古墳群第1+2号墳、男子形埴輪・馬形埴輪・大刀埴輪・円筒形埴輪をもつ観音塚古墳と、もともと西岡第32号古墳以来伝統的といえる埴輪をもつ点が共通して、6世紀の間、ほぼ等間隔の時間をあけて順次築造されています

この田園調布古墳群と野毛古墳群を総称して荏原(台)古墳群と呼びますが、この古墳群は基本的に前方後円墳を造り続けています、隣の野毛古墳群では帆立貝形古墳が主流となりましたが、この墳形は前方後円墳に対する大和政権の規制によって生じたと考えられます

このことは、古墳群形成初期から親大和政権派であったのではないかということを思わせます、南武蔵ではもっとも早く横穴式石室を取り入れ、六鈴鏡を出土した西岡第28号古墳(円墳)があることでも裏付けされるようです

この地域が親大和政権派であったとしても、狛江亀塚古墳のような帰化人の存在は、その地味な副葬品からみて期待できないでしょう、7世紀に入ってからの多摩川台古墳群第9号墳の銀象嵌大刀が目を引きますが、やはり在地勢力とみるべきでしょう

なぜなら、南武蔵で屯倉が設置されなかったのはこの地域だけだからです、したがって、大和政権はその経営をする必要がなく、官吏を派遣することもなかったと考えられるからです


追伸

明日(4月16日)より4月19日まで、カテーテル手術の経過検査のため入院いたします、そのため更新を休みます、4月20日より再開します、よろしくお願い申し上げます