入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[8]

大和政権の第1次規制により、帆立貝形古墳を中心に円墳が築造され、前方後円墳が武蔵においてはみられなくなる5世紀第2・3四半期に、上毛野では、たしかに帆立貝形古墳も造られましたが、すでに述べたように、大和政権に匹敵する大形前方後円墳が築造されていました

そして、両者の深い関係を示すように、太田天神山古墳や御富士山古墳では大王の棺とされる長持形石棺さえ備えられたのです、これで大和政権の大王墓と変わらない内容を持つに至ったとみることができるでしょう

さらに、この時期を特徴つけるのが、上毛野と南武蔵ではその分布が確認できる滑石製摸造品です、最終的には、上毛野で、高崎市・若田古墳群(剣崎天神山古墳・長瀞西古墳・若田大塚古墳)から安中市・簗瀬二子塚古墳へと伝統が残り、以降見られなくなるのですが、最後までこれを用いた祭祀にこだわっていたことに注目すべきでしょう

そして思い出されるのが、甘粕氏説において指摘されている滑石製摸造品・厨膳具セットの存在です、白石稲荷山古墳・剣崎天神山古墳と、野毛大塚古墳・第2主体部との関係です、野毛大塚古墳では先行する第1・3主体部については「被葬者の間の主従的関係」を表しているとされ、前述のように大和政権との関係が強調されます

だが、次の箱形石棺・第2主体部については、その形態の特殊性も含めて、いやが上にも受けざるを得ない上毛野の影響力と大和政権との狭間にある複雑な位置付けが想定されます

しかし、このような影響力を及ぼす原因となった太田天神山古墳の系列は、鶴山古墳までで一旦途切れてしまいます、その原因は上毛野への大和政権による規制と考えられるでしょう、つまり、前述の小野山氏説いう「雄略の時期」の「第二次規制」が働いたものとみられます

このことは、規制をかけねばならないほど、当時の上毛野の権力が増大し、大和政権が危機感を持って対処したことを想定させます、これを契機として「雄略の規制」は本格的に東国を席巻することになります