入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[7]

これまで三角縁神獣鏡の分有などで支配関係が生まれていた南武蔵や上毛野を、ただ押え付けるのではより深い支配の浸透が達成されないと考えたためか、大和政権において定形化した武具の供給をしている点が注目されます

これらは「その生産が百舌鳥古墳群古市古墳群の被葬者集団のもとで量産化が図られ、広い範囲に供給されるようになった」と推定されており、甲冑の変遷における第Ⅱ-1期(三角板革綴衝角付冑と三角板革綴短甲・長方板革綴短甲が共存)と、第Ⅱ-2期(鋲留技法が導入された時期)の武具と考えられます

第Ⅱ-1期の例として野毛大塚古墳・赤堀茶臼山古墳があげられ、白石稲荷山古墳(前方後円墳)の短甲形埴輪・長瀞西古墳(円墳)出土例もこれに準ずると思われます、また、第Ⅱ-2期では御岳山古墳・朝光寺原1号墳」・鶴山古墳(前方後円墳)があげられます

しかし、ここでの出土量は、ほぼ同時期の古市古墳群大阪市藤井寺市・野中古墳群(墓山古墳の陪塚とされ、5列に並ぶ埋葬施設から11以上の短甲他、多数の冑や鉄製品、36kgに及ぶ鉄鋋等が出土している)や古市古墳群百舌鳥古墳群の中間に位置する大阪府南河内郡黒姫山古墳(前方部竪穴式石室は24領の甲冑の他、多数の鉄製武器・武具で埋め尽くされていた)などと比べ格段の差があります

この武器の供給は支配のためには相反することのように見えますが、その量の相違からは個人のための武具とストックされた武具の差が考えられ、問題となるものではないでしょう、ここには大和政権による飴と鞭の関係が存在するように思われます