入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈7〉

「このように東国の開発という大和政権の東国経営が進んでいく中で、毛野は一番後発の地域だったと考えてもいいだろうと思います、しかし、後発だからといってずっと遅れたというのではなくて、ワンクッション遅れて開発された地域、それが毛野だったのだろうと思うのです」

「こうした状況で、この地域に100mクラスの前方後方墳前方後円墳が成立したのは、4世紀後半の時代であったろうと考えています、そうしますと、高崎付近、前橋の南の付近、太田周辺、それと栃木県南西部のあたり、これは毛野の中核地域なのです」

「従って、毛野の地域も最初から1つの統一された地域ではなくて、それぞれの地域に外来系の開発集団を統率した首長によって、幾つかの地域に中核的な地域圏が成立して、幾つかの地域形成が進んでいったと考えられるのです、しかも、その地域形成を支えた人たちいうのは、いわゆる外来系のS字形口縁の石田川式土器を最初使っていたということが言えるのです」

「そういう時に、南関東ではどういう土器を使っていたかというと、口縁部がS字ではなくて単口縁の土器が使われています、いわゆる前野町式とか五領式というような土器です、従って、毛野の形成の時期は、利根川を境にして南関東とも若干違う地域圏が育っていったと言っていいだろうと思います、しかし、その中心になったのは前橋天神山古墳の出現した地域であろうということは十分推定されるわけです」