入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈15〉

「ところが、5世紀の後半になりますと、太田地域に210mもあるような超越した大きさの古墳は見当たらなくなります、造られなくなってしまうのです、また、ほかの地域にもないのです、高崎付近や前橋の南にも、伊勢崎にも、宇都宮の方にもないのです」

「これらのことから、太田天神山古墳ができた後、急激に毛野の勢力は衰退すると云っていいだろうと思うのです、特に太田の地域では前方後円墳をつくることがなくなります、その代わりに帆立貝形古墳がたくさんできるのです、これは毛野だけに言えることなのか、または南関東の方にもそういうことを言っていいのかどうか考えてみたいと思います」

「私は多摩川流域にもそういう事があっただろうと思います、というのは、石製摸造品がたくさん出ている野毛大塚古墳とか、御岳山古墳とかありますけれども、あれらは帆立貝形古墳で、時代は5世紀前半としますが、私の考えは少し後、1世代ぐらいの差だろうと見ています、そういう中で考えれば、それほど辻つまが合わないわけではないのですが、いずれにしても南武蔵でも5世紀の中ぐらいから後半には前方後円墳はなくて、帆立貝形古墳なのです」

「そういう状況が南武蔵と毛野の双方に見られるようになります、ただ、毛野の地域では1ヵ所、井野川流域のみ前方後円墳をつくる勢力が5世紀の後半から6世紀の初めにかけて残ります、そして、武蔵では埼玉古墳群が形成されるようになります」