入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”〈大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈12〉

「地域的に見ますと、太田の南部に朝子塚古墳タイプの古墳、また藤岡付近(白石)にもそういう古墳が生まれるという時があるのです、しかし、大勢としては171.5mもある高崎の倉賀野浅間山古墳が中心になって、毛野の地域は連合の方向へ向かうと考えられるのです」

「今の富岡付近でも天王塚古墳という前方後円墳がありますが、これは全長80mクラスです、しかし、この古墳は前橋天神山古墳タイプです、太田のほうでも別所茶臼山古墳というのがあります、図Aでは米沢二ッ山古墳の北にある前方後円墳です、これは時期的には朝子塚古墳より一時期後だろうと思うのですが、その古墳も前橋天神山古墳タイプで160mぐらいです」

「従って、5世紀の前半代に毛野の各地域には主要な地域を中心に、いわゆる倉賀野浅間山古墳を盟主として、各地に前方後円墳を残した首長が連合する形で、毛野連合政権というような地域圏が成立していったのだろうと思うのです」

「そこでは、前橋天神山古墳、浅間山古墳、そして別所茶臼山古墳の首長が継起的に中枢首長の地位に就いたと考えられます」