入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈13〉

「ところで、群馬県地域は古墳が非常に多くつくられたと云われていまして、昭和10年の全県下一斉の古墳調査では8432基という数が古墳として集計されています、その中には幾つか見間違いというのはあるのですが、1万基ぐらいの古墳があった、一説には1万2000基ぐらいあっただろうと云われています」

「その調査において前方後円墳はというと、395基あったとされています、その395基の内かなりの部分を帆立貝形古墳が占めていたようです、今回の特別展「武蔵国造の乱」でも帆立貝形古墳と前方後円墳を区別しておりますが、当時、その帆立貝形古墳を帆立貝形前方後円墳と言っていたように、前方後円墳と同じに見立てているのです」

「そこで、前方後円墳がどのくらいあったか追跡調査してみましたところ、群馬県につくられた前方後円墳は199基でした、その内訳は、現存するものが86基あって、今はもうなくなってしまったけれども、間違いなく存在したと明らかにできたものが66基、推定できるものが47基、全部で199基です」

「この数字が群馬県地域につくられた前方後円墳の全体の数に最も近いだろうと思うのですけれども、その内の殆んどは6世紀以降の古墳で、5世紀代はかなり限られています」

「しかし、4世紀から5世紀代は規模の大きな古墳が多いということです、80mクラスとか100mクラス、あるいは130mクラスのものが各地に拠点的な位置を占めてできます、浅間山古墳はそれらの盟主的性格を有するものです、このように5世紀の前半代に各拠点に大きな古墳ができるのですが、そのなかで、高崎の地域が優勢な地域に成長しているのです」

「次の段階5世紀中葉になると太田の地域に太田天神山古墳という古墳ができます、同時に伊勢崎の付近に御富士山古墳、高崎の付近には不動山古墳ができています、この太田天神山古墳は全長210mで、御富士山古墳は125m、不動山古墳は98mです」

「図E『群馬県地域の主な前方後円墳(2)』に太田天神山古墳、御富士山古墳、不動山古墳があります、これらの実測図は縮尺を同じにしてありますから、大きさの比較はできるのですが、不動山古墳と御富士山古墳を、太田天神山古墳の大きさに拡大していきますと、古墳の形が前橋天神山古墳と倉賀野浅間山古墳のときと同じように、同じプランで、相似形をしていることがわかります」

「そうしますと、この3つの古墳も同じ設計でつくられていると言えます、しかも、太田天神山古墳は210m、御富士山古墳は125mですから、全長が半分よりもちょっと大きく、不動山古墳の方は太田天神山古墳の半分よりもちょっと小さいのです」