入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[19]

百済の国王から大和政権へ金鍍金された青銅製の仏像と経典が届けられたのは、538年とも552年ともいわれています、この新しい宗教は、これまでの自然物を神として崇拝する原始的宗教(祭祀)とは全く異なる性格を持っていました

従って、古墳文化仏教文化の精神は、本来相容れない関係にあるということとも云えるでしょう、そして、それ以来、仏教が次第に日本に浸透するにつれ寺院の建立に力を注ぐようになり、古墳の築造が顧みられなくなるという現象を生み出すことになります

仏教伝来後も、上毛野では7世紀後半に前橋市社町・放光寺(山王廃寺)が、南武蔵では7世紀末~8世紀初頭に川崎市宮前区・影向寺が現れるまで、寺院は建立されなかったとはいえ、仏教がこれらの地域に伝えられていなかったわけではなかったのです、それを証明するのが6世紀後半にみられる仏教遺物(仏器)の古墳への副葬です

群馬県高崎市・綿貫観音山古墳では、横穴式石室から大量の副葬品が出土しています、これらの中には韓国・百済武寧王陵(525年築造)出土鏡と同笵の獣帯鏡や金銅製鈴付大帯などが含まれ、古代アジア各地との関係が考えられる貴重な資料といえるでしょう、この中に、中国北斉時代の山西省庫狄(こてき)廻洛墓出土品と類似品とされる銅製水瓶があり、仏教文化との関係が説かれ、香水などを入れたと考えられています

また、埼玉稲荷山古墳と同笵の画文帯神獣鏡を出土した八幡観音塚古墳では、前者同様朝鮮半島との深い関わりが想定される多くの副葬品が出土していますが、その中の銅製鋺・銅製承台付蓋鋺は食器仏具、或は、舎利容器として用いられたと思われています

さらに、埼玉将軍山古墳では、これとほとんど変わらない銅製鋺・銅製高台付蓋鋺が出土しています、ここでは朝鮮半島との関わりが強いとされ和歌山県・大谷古墳出土品しか知られていなかった馬冑が出土しています

これらの古墳にみられる共通点は、中国・朝鮮半島を中心とする古代アジア諸国との深い関係です、銅製鋺は東国での出土例の多いことが指摘されていますが、この地域の豪族の、新しい文化を吸収しようとする積極的姿勢の現れとみることができるでしょう、このような姿勢は、大和政権との関係が安定していなければ生まれてこないであろうと考えられます

つまり、東国全体に吹き荒れていた国家再編の嵐が納まったことを意味しているのでしょう、この6世紀後半の段階に「国造制」が完成したといえるのではないのでしょうか