入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [17]

原島礼二氏が「『日本書紀』のミヤケの設置記事」『古代文化』26-1で「屯倉の設置年次が、欽明・推古朝の屯倉設置を中心にして意図的な整合性(陰陽五行説)をともなって配列されている事実を明らかにした」ことを受け、「屯倉設置記事に、このような意図的な配置の整合性が認められるとすれば、屯倉設置記事は『これらの記事の基本となった欽明・推古の記事を除くと、いずれも実録的性質がその年次について認めがたいことを物語る』と考えざるを得ないだろう」とし、安閑天皇2年の条の屯倉の集中的設置記事も「『書紀』編者の造作にすぎないとすべきである」という見解に従わざるを得ないと述べている

そして、「比企地方が体験した政治的変動を具体的に洞察できる」考古学的諸現象として、集落構成や外来葬制の出現をあげ、前述のような横渟屯倉の設置時期を考えたのである

横渟屯倉の設置時期を中心としたなかで、北武蔵に限って甘粕説への疑問点を指摘したわけである、しかし、ここでの指摘は、甘粕説の抱える矛盾を決して北武蔵だけに留まらず洗い出しているし、「武蔵国造の乱」を考えるにあたり、見過ごすことのできない問題を明確にしているようです