入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [16]

横浜市史」から「古代の日本」へと「武蔵国造の反乱」を史実として肯定的にとらえようとしてきた甘粕健氏の説に対して、疑問を提示したのが、金井塚良一氏の『吉見百穴横穴墓群の研究』校倉書房、昭和50年(1975)です

金井塚良一氏は、”武蔵国造の乱”は吉見百穴横穴墓群出現の歴史的背景を考える中で、6世紀代に埼玉県の比企地方(和名抄の横見郡比企郡男衾郡の1部にあたる)に「画期的な変動をもたらしたと想定される歴史的事件」として取り上げています

なかでも「この争乱が、比企地方に直接的な影響を与えたのは、むしろその後に設置されたという、横渟屯倉によってであろう」とし、まず設置場所を考察し「横見郡(吉見丘陵周辺)に比定して、ほとんど間違いないだろう」と述べています、しかし、その設置時期については「比企地方の古墳群の検討によっては6世紀終末か7世紀初頭の可能性がかなり強い」と乱の事後処理として献上されたとする6世紀前半説を批判しています

「武蔵の古墳の消長と武蔵国造の争乱には、それほど直截に両者を関連づけられる歴史的な必然性が存在しているのだろうか」と疑問を投げかけ、さらに「安閑紀の屯倉設置の記事には、書記編者の造作と考えられる可能性がかなり強い」と注意しています、そして「しっかりした史実性」に「疑義を唱える」としています

①「武蔵国造の争乱と、これほど密接に関連付けられて把握された埼玉古墳群ではあったが、実はこの古墳群の形成と内容については、意外なほど厳密な学問的検証がなされていなかった」として埼玉古墳群が「6世紀前半にはすでに出現していたこと」「方形周溝墓、埴輪を施設した円墳群も新たに確認され」「このような複雑な内容と形成時期が正しく把握されなければ、安易に武蔵国造の争乱に結びつけてはならないものであろう」と警告しています

②「6世紀以前の北武蔵では、見るべき古墳がなかったという把握が一貫してとられているが」と、次に具体例をあげ「少なくとも6基以上の前期古墳は存在していたし」、さらに増える可能性があることを指摘、決して「貧弱な内容ではなかったはず」と強調しています

武蔵国の首長権が、国内の諸勢力の間を移動しながら継承されたという説に対して、「前方後円墳を平置しただけでその実態が証明できるものではないだろう」と述べ、また、突然南武蔵から遠く東松山市まで移動するという「構想も、現状では突飛にすぎて、説得力はきわめてうすい」と批判している、さらに前方後円墳の「形成時期や性格把握に一貫しない曖昧さを散在している」とし、例えば埼玉将軍塚古墳が『横浜市史』では6世紀とされているのに『古代の日本』では5世紀前半から後半と、論文ごとに変化することに不信感を投げかけている

④「安閑期の記事と武蔵の古墳形成を関係させる論者の多くは、埼玉古墳群以外の北武蔵の古墳を、全く問題にしようとはしていない」と不満を述べ、比企地方にも「少なくとも18基以上の前方後円墳が存在している」と指摘している、そして「埼玉古墳群は、比企地方の前方後円墳の形成と比較して、はじめて北武蔵における歴史的位置づけが完成される」と、論者の御都合主義を批判している

北武蔵だけでも、これだけの疑問が指摘できること、「とりわけ使主一族の古墳群と想定した埼玉古墳群の把握の曖昧さ」、武蔵の古墳形成と武蔵国造の乱の記事とが対応すると「断定することを躊躇させるだろう」と結んでいます