入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [15]

4個所の屯倉については「南武蔵に置かれた3個所の屯倉と、これらと飛び離れて北武蔵に置かれたと考えられる横渟の屯倉との性格の違いに注目する必要がある」としています

古墳時代後期の関東地方でも「武蔵南部・相模・安房・上総南部は」有力な前方後円墳の分布が見られないことから、他地域とは政治構造に差異があるのではないかとし「武蔵の3屯倉と伊甚屯倉(千葉県夷隅郡)を含む南関東全域は、大和政権の直轄地的な性格の強い地域となり、そこには独立的な存在は許されなかった」と考えています

横渟屯倉の所在地、現在の埼玉県比企郡吉見町が埼玉古墳群と野本将軍塚古墳の存在する東松山市の中間に位置することから「北武蔵の2大政治勢力の中間に打ち込まれた楔を思わせる、おそらく、武蔵国造を牽制する大和政権の軍事的・政治的拠点としての性格の強い屯倉であろう」としています

さらに、上毛野の緑野屯倉については「武蔵の内乱の戦後処理のなかで、上毛野君に対する懲罰として設置された」とし、「横渟屯倉と共通した性格を有したもの」と述べています

論文の発表当時のデータに問題があったり、その後の調査で新たな資料が生まれていたりする点は致し方のないことと思われます、しかし、大筋に於いて一方の雄とすることのできる説であり、「武蔵国造の乱」といえば、すぐにこの論文が頭に浮かぶように、充実した内容を持っていることは評価されます

武蔵国造の乱」を北武蔵の使主と南武蔵の小杵の対立として大きくとらえ、「共同体の変質と支配体制の再編」という社会情勢を背景として、各地の古墳の消長と出土資料の比較による具体的な現象を見つめながらの裏付けは、この論文が大きな影響を維持している重要なポイントとなっているといえるでしょう