入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [14]

また、「上毛野君が、当時武蔵国造に対して一種の宗主権を持っていた」のではないかとし、「国造の継承に介入する正当な権利」を持ち、武蔵国造が強大になることを阻止するため、「古来の慣習的な継承法に従って、国造の位を笠原直の家から、他地域の同族に譲ることを要求したのに対し、笠原直が大和政権と結んで実力で慣習を破り、国造の世襲制を確立したと見ることもできよう」と上毛野の介入を意味付けようとしています

武蔵国造の乱は「地方政権の性格の革新と、大和政権の直轄支配権の設置という2つの結果をもたらした」と述べ、「このことは、この争乱が単なる国造家のお家騒動ではなく、継体・欽明朝の内乱として定式化された、全国的な社会的・政治的変動の一環をなす重大な歴史的事件であったことをうかがわせる」と締め括っています

武蔵国造の乱が起こる背景には「古代東国の社会発展史上きわめて重要な画期」があったことが指摘される、その1つは、鉄製農具の普及による「農業生産力の発展、2つは、「群集墳の発生に見られる共同体内部の階層分化の進行」である

これにより、「古墳時代後期の農業生産力発展のにない手である広汎な家父長家族の台頭」をもたらし、「前期以来の共同体は大きく変質した」のである、そのため首長の権力の基盤は動揺した、「継体・欽明朝の内乱は、こうした社会的変動がもたらした古代国家の危機であった」と考え、「使主と小杵の抗争、大和と上毛野の対立も、こうした支配体制の再編成のヘゲモニーをめぐる支配階級内部の深刻な闘争であった」と位置付けています

その現象として「5世紀末ごろから関東の古墳文化の内容ににわかに軍事的性格が強まる」ことをあげています、これは「大和政権をはじめ国造あるいはそれに対抗する首長層は、新興の家父長層の一部に古墳の造営を認め、身分的な特権を与えることによって彼等を引き付け、さらに、これに武器を供与することによって、親衛軍にしたてあげる」ためではないかと想定しています

これらの点は、結果として「大和政権の本格的な介入を招く条件」となってしまったのである、つまり、「農業生産力の画期的たかまりがあって、はじめて、遠隔の南武蔵の直轄領が、大和政権の経済的基盤の強化になり、軍事組織の発展が、舎人の貢進という形で、東国国造の子弟が大王の親衛軍として大和政権の軍事力の増強に貢献することになりえたのであろう」とするのである

そして、各地の「乱」も含め、当時の社会情勢が、常に大和政権の都合の良い方向へと進んでいったことを示してしているということにもなるでしょう