入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [13]

小杵の本拠地については、「大和政権に反抗して滅ぼされた豪族の領地を収公して屯倉にした」と考えるのが自然であるから、「争乱の後に広大な屯倉が設置された多摩川鶴見川の流域」を「勢力の基盤」としていたと想定しています、これに対し「笠原直使主の本拠を示すのが、北武蔵の埼玉古墳群であることは疑いない」とし、「530年代に活躍した使主の没年は6世紀中葉か後半に降りる可能性が多いから、その古墳としては二子山古墳のほうが(稲荷山古墳より)妥当性が強いと想定しています

さらに「上毛野色の強い環鈴や鈴杏葉の副葬が見られること」も大和政権と手を結んだ使主には不合理な点であると指摘しています、そして「二子山古墳以降、武蔵の大古墳が前方部の発達した典型的な前方後円墳となり、上野の大古墳と形態上の差異がなくなることは、上毛野君に対する武蔵国造の従属的な関係が解消されたことを意味する」と考えています

5世紀後半に「古墳時代初期の生産力では、十分活用できなかった荒川中流域の広大な沖積平野の水田化がある程度進展したこと」「北武蔵の政治勢力が、背後の上毛野国との同盟によって軍事的にも、政治的にも、南武蔵の諸勢力に対して優位に立ったこと」で、主導権は先進的な地域であった南武蔵から北武蔵へと移行した、「5世紀後半頃」丸墓山古墳が出現するのは、「埼玉の首長が武蔵国造の権力を掌握し」「国造権力による国内人民の労働力の搾取が、この段階にいたって画期的に強められたことを示している」と考えています

そして、「この時期を境に、武蔵国の内部の国造と一般の首長層との力関係が変化し、国造の地位が埼玉の勢力から離れて、再び平和的に南武蔵の勢力の間に戻るという可能性が失われていった」という状況の中で、「6世紀前半にいたって、南武蔵の勢力が、北武蔵の勢力を武力で倒し、国造の位を奪取しようとする行動に立ちあがった」、しかし、ここで「上毛野君と大和政権の介入となり、全国的な性格をもった争乱に発展した」と「政治過程」を復原しています