入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈27〉

「『安閑紀』にいわれるように、その時期、国造制が武蔵にしかれていたかどうかという点ではわかりませんが、武蔵の最高首長の地位を争う同族がいたとすれば、いつも問題になるのは、その場合、笠原直かもしれない埼玉古墳群の首長意外には考えられないだろう、これはだれでも一致するわけです」

「一方これに対抗したのは南武蔵というけれど、その時期の南武蔵には反乱に立ち上がれるような勢力はなかったのではないかというのが私への批判の大きな論点です」

「だから6世紀前半という枠は外して、比企の野本将軍塚古墳とか南埼玉の天王塚古墳とか、北武蔵の中での埼玉の外側にある大古墳に代表される勢力が同族として反乱を起こしたのではないか、その方が筋が通ると批判される方々のご意見もあります」

「しかし、浅間神社古墳の存在は『安閑紀』の争乱の前後の南武蔵に、埼玉の首長に対抗し得る勢力が形成されていた可能性をうかがわせてくれます、単に埼玉の大前方後円墳に次ぐB級の前方後円墳というだけでなく、先程述べましたように、田園調布の首長を盟主として南武蔵の連合が復活し、その勢力が上野と結びついたとすれば、埼玉の首長に大きな脅威を与えることになったであろうと考えます」

「この頃の南武蔵の力を考えるに当たっては、狛江古墳群の存在も見逃せまん、この古墳には30~40mの有力な円墳が今わかっているだけでも9基あります、それらは5世紀後半から6世紀前半の短い期間に集中して造営されたらしく、それらの中核には埼玉稲荷山古墳に勝るとも劣らない卓越した内容の副葬品を持つ亀塚古墳があるわけす、浅間山古墳の内容は不明ですが、田園調布と狛江の政治的集団は、南北武蔵を通じて埼玉の勢力に次ぐ力を持っていたのではないでしょうか」