入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈26〉

「さて、いよいよ6世紀に入ってくるわけですが、これは大きな謎ですけれども、こういう惨めな武蔵の状況が5世紀末頃になって、埼玉稲荷山古墳の出現をもって大きく転換していくことになります、この時期、旧荒川の広大な沖積平野にご存じの埼玉古墳群が忽然と姿をあらわして、稲荷山古墳以後連続的に100mを超える巨大古墳がつくられます、それは同時期の上野の前方後円墳をしのぐ勢いを示すわけです」

「そこで、一番の本題である武蔵国造の反乱と埼玉古墳群との関係を考えてみたいわけですが、稲荷山古墳の出現と前後して、南武蔵でも首長墳が息を吹きかえしています、最近の大田区教育委員会の大きな仕事として、亀甲山古墳の南側の浅間神社古墳が、古い人物埴輪や動物埴輪を伴う60mないし70mのかなり大型の前方後円墳であるということがわかりました」

「また、この時期、豊島の地域でいうと、上野公園の摺鉢山古墳、これも変形していますが、この時期あるいはこれに近い時期の70mクラスの前方後円墳であり、埼玉古墳群ほどではないけれども、南武蔵でも前方後円墳が復活することがわかります」

「この段階では、例えば、鶴見川水系などでは、まだ20~30mクラスの円墳がつくられているようです、狛江古墳群では、突然変異的に亀塚古墳という中規模帆立貝式古墳ができてきて、大和政権との強い結びつきを示しているわけですが、これも鈴釧を出すとか、初期の人物埴輪を出すとか、北関東色も同時にもっています、規模からいうと狛江古墳群は前の時代と同規模の古墳をつくり継いでいます」

「トップに60~70mの前方後円墳浅間神社古墳、摺鉢山古墳があり、その他の諸地域では中小の円墳、帆立貝式古墳が分布するという南武蔵の古墳分布の構造を見ると、かってほどではないけれども、荏原・豊島の首長の南武蔵におけるヘゲモニーがまた復活しているのではないかと云えます」

「関東の古墳時代後期の前方後円墳は4つくらいのランクに分けられます、Aは100m以上、Bは70m前後、Cは40~50m、Dは20~30mで、C、Dは郡領域かそれ以下の最小単位の地域首長に対応し、A・Bは、C・Dクラスの首長を統括する連合体首長に対応すると考えられます」

「Aクラスは武蔵では唯一埼玉古墳群の大型前方後円墳で、その首長は武蔵全域の最高首長と考えられます、Bクラスの浅間神社古墳の首長は埼玉の首長を盟主とする連合体に属していますが、それと同時に南武蔵の連合の盟主でもあるという立場にあったのではないかと思います」