入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈25〉 

「私(甘粕)は、前の論文で鈴鏡の分布を上野の影響力の傍証として取り上げ、上野を中心にして、下野、ぎりぎり常陸の西外れの関城町あたりまで、北武蔵にもあって、田園調布・野毛古墳群が上野を中心にする鈴鏡のローカルな分布圏の南限であることはその後も変わらないわけです、鈴鏡は遠江地方とか伊那谷でも多いし、大和にもあるし、伊予にも集中地域があるわけですが、いろいろな鏡がある中で、特殊な鏡を好んで入手する地域があるということが重要です」

「腰に鈴鏡をつけた巫女の埴輪からうかがえるような鈴鏡を使う特殊なお祭りがあって、上野の勢力によってそういうものが発展させられている、そういうことが5世紀の後半から6世紀にかけてあって、そのような古墳祭式を共有しようとする意図が武蔵と上野の首長の間に一定の期間あったことは間違いないと思われます」

「しかし、そのことは直ちに政治的な連合とは結びつかないわけですが、祭祀形態の一致が、何か事があって地域的に政治的な結集をする場合に重要なベースになることはあると思います」

「例えば石人石馬、これは九州独自のもので、こういうものが筑後地方から豊前、豊後あるいは肥後という地域に広い広がりを持っています、そういうものは自体は宗教的な1つの風習の広がりということでしょうけれども、磐井の反乱がある場合、筑紫国造の磐井が豊・火(肥)を装い覆って、反乱に立ち上がるというわけですから、畿内勢力との対決が生じた場合、石人石馬を共有していた地域の豪族たちが筑紫君を盟主にして、抵抗した、そういう結びつきのベースになるわけです」

「その辺のことが上野と結んだ武蔵国造の同族の反乱の背景を考える場合の参考になるのではないか、というふうに思います、古墳は沢山あるのに、常陸や総や相模の古墳からはほとんど鈴鏡が出なくて、何で西北関東だけに集中しているのかということの意味は非常に大きいと思います」

伊那谷の場合はどうなのかということを十分検討しなければいけないわけですが、最近、北条芳隆さんが、上野を中心に発達した特殊な靭形埴輪が上伊那地方に出現した6世紀前半の前方後円墳に用いられていることを指摘し、私の武蔵国造の論文にも触れ、この古墳の造営に上野の勢力が積極的にかかわったであろうと論じています」

「6世紀の東国史を考える場合、地域政権からの巻き返しともいうべきエクスパンション(拡張)を大いに考えていく必要があると思うわけです」