入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈28〉

「更に、面白いのはその後で、9期、10期になると、せっかく浅間神社古墳、摺鉢山古墳というB級ができたのですが、その後、43mの観音塚古墳、30mクラスの多摩川台古墳群1・2号墳と小前方後円墳になってしまうのです」

「そのときに、今度は鶴見川水系とか大岡川水系の久良、橘樹では、堂ノ前古墳・諏訪坂古墳、三保杉沢古墳、軽井沢古墳、瀬戸谷古墳などが、観音塚古墳や多摩川台古墳群1・2号墳と平行してつくられています」

「小前方後円墳の横並びを迎えて、再び南武蔵連合は解体したと考えられます、ですから反乱が挫折して屯倉が置かれるという状態に適しているわけです」

「では反乱勢力のもう1つの候補地とされる比企地方はどうかというと、8期にBクラスのおこま山古墳(62m)があるわけですが、その後、甲(冑)山古墳という92mの円墳ができたり、とうかん山古墳という74mの前方後円墳ができたり、これは落ち込まないわけです」

「だから、反乱をおこして、やっつけられたことにはならない、そういう点では、やられたのは南武蔵ではないかということになるわけです」

「また、最近の研究で私の説の大きな援軍になると思われるのは、藤岡市白石古墳群の七輿山古墳です、これは今迄時期がはっきりしなかったのですが、6世紀の前半ぐらい、あるいは初頭の年代が与えられるようになりました」

「おそらく、埼玉稲荷山古墳よりちょっと新しいと思います、これは墳丘長146m、二重の周溝を持ち、全長が250mもあるのです、その頃、埼玉古墳群では二子山古墳ができますが、こちらは138mで、8m七輿山の方が大きいのです、前方部と後円部の高さは、二子山古墳は13m、七輿山古墳は17m、大変なボリュームで、堀を含めた墓の区域は超大型であります」

「ですから、このときに太田天神山古墳以後ややふるわなかった上野勢力が、一時的ですが、6世紀初頭ぐらいに再び七輿山古墳を盟主にした連合体を再結集して、埼玉古墳群などの勢力に圧力をかけていくという状況になったのではないかと思われます」