入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈29〉

「伝統を誇る南武蔵といえども、単独で埼玉古墳群の勢力に立ち向かうのはとてもできないのですが、この時期、上野の勢力が強力になって南下してくれば、政権を奪還するチャンスがあったのだと思います、七輿山古墳以後、白石古墳群の前方後円墳は60mクラスにがたんと落ちていくわけです」

「9、10期の毛野は、群領域ごとに、高崎の八幡観音塚古墳とか、綿貫の観音山古墳とか、赤城山南麓の中二子古墳とか、太田であれば東矢島観音山古墳とか、100mクラスの立派な内容を持った横穴式石室の古墳がブロックごとに横並びに出てくるわけです、そういう中で、白石のグループだけはがたんと没落してしまいます」

「もう1つ没落するところがあります、それは高崎市の倉賀野のグループです、4期の浅間山古墳・大鶴巻古墳、8期には小鶴巻古墳と、大きな前方後円墳があるのですが、この後は、漆山古墳という60mクラスの前方後円墳になります」

「倉賀野と白石はどういうところかというと、白石は安閑紀の末尾に設置記事がある緑野(ミドノミヤケ)が置かれた地です、倉賀野の方は有名な山ノ上の碑の墓誌銘に出てくる佐野屯倉の佐野なのです、群馬の中でそれまで大きな古墳があって、9、10期に衰退していく地域は、武蔵国造の反乱以後に屯倉が置かれたところではないかということが考えられます」

「では、屯倉の構造は遺跡の方からどういうふうに考えられるか、屯倉の時期の武蔵諸地域の関係を検討しなければいけないわけですが、時間がきましたので、今日はここまでにさせていただきます、(拍手)」