入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈30〉

[質疑応答]

〇質問

「我々が昔習った中に、5世紀の初めに日本武尊・倭健命が来たのを見ると、総の国から毛野の方に行っているようなので、武蔵の方は事跡が余りないように思うのです、野毛大塚古墳ができた後ぐらいで、元気がなかった頃だから素通りしたのかどうか、その辺をご意見をお聞きしたいと思います」

〇甘粕

古墳文化の流れとか土器の流れとかがあるわけですけれども、そのような形でしか政治はわからないわけですが、大きな西から東への動きは東海地方の土器の移動という形で弥生時代の終末の時期、古墳が出現する直前にあるのです、その辺が日本武尊と結びつくかどうかわからないわけですが、また5世紀になると甲冑などを副葬した軍事的な色彩の強い古墳が点々と出てくるとか、西から東、関東を目指す動きが3世紀から5世紀にかけて幾つかの波があったと思われます」

「そういう中で、武蔵から荒川や旧利根川を遡る流れは常に重要なルートだったと思います、それと同時に東京湾を横切って向こう岸の市原台といったところには、常に西から東への動きを反映する現象がみられるのです、その場合、どうしても武蔵を通る、相模でもいいわけですが、武蔵、相模は東海道のルートの交点、武蔵の動向を考える場合そういう点があるわけです」

日本武尊にイメージされるような原体験は古代貴族にあったと思いますが、それがどの段階の流れを反映しているのかはわからないのですね」

〇質問

「資料地図の中ですが、横渟屯倉が八王子のところと野本将軍塚古墳の上に(?)のマークがついていて、2つ記されていますが、その意味と、先生はどのようにお考えかお伺いします」

〇甘粕

「北の横渟(野本将軍塚古墳の上の『?』)は吉見とか横見郡、そういう地名と合うんじゃないかということで、これが今一番有力です、ただ、何でこれだけ北に離れてぽつんとあるのかということがあります、南の横渟(八王子の上の『?』)の方は、横野、つまり八王子周辺の丘陵地帯、多摩の横山、万葉集などに出てくる地名と一致するんじゃないか、という二通りあるわけです、ですから、ほかの3つに比べると横渟は不安定だということはあります、どちらが良いかということになると、話は長くなります」