入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈31〉

[質疑応答]

〇質問

武蔵国造の反乱は『日本書紀』で安閑天皇元年となっていて、その前の武蔵の動乱については、『日本書紀』の記述は全くないわけですね、稲荷山古墳から出土した鉄剣は471年、中国『宋書倭国伝に残っている倭王武上表文の『東は毛人を征すること五十五国・・・』、これをスライドしますと、武蔵の動乱は明らかに5世紀の後半、つまり安閑天皇元年から60年遡ると思うのですが、その辺はいかがでしょうか」

〇甘粕

「埼玉古墳群の出現は全く謎なのですね、これの分布図でみると、無風地帯に落下傘で降りてきたようなもので、騒乱をおこさなくても、あそこに拠点をつくることは可能だったのではないか、5世紀後半の畿内王権が何をやっているかというと、恐らく東北征伐です、仙台平野に雷神山古墳(170m)とか、東北南部には大きな前方後円墳が5世紀初めくらいまであるのですが、5世紀の前半はブランクなのです、5世紀後半になって再び仙台平野に中規模の有力な古墳が出てきて、やがて北上川中流や山形盆地にも出てきている」

「そういう脈絡の中で考えると、この時期に武装した関東の勢力は、一方は対朝鮮にもう一方は東北に動員されるということがあるのではないかと思います、だから、武蔵の中で波風が起こったかどうかはわかりません」

〇質問

「先生は論文『武蔵国造の反乱』の中で使主の墓を埼玉二子山古墳と推定されましたが、現在でもそのように思っていらっしゃいますか」

〇甘粕

「これはあくまで可能性の問題ですが、おかしくないという感じがします、そうすると、七輿山古墳は小熊の墓だということになりますが」