入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月13日)から 「武蔵の開拓と国造」(大田区立郷土博物館長 慶応義塾大学名誉教授 西岡秀雄氏)〈1〉

「『図4古墳時代前後の関東経営に関する主要事項』を見ていただきます、世紀・歴朝の項目の次、4項目目が開拓をするための方法です、1番目が『武力政策と地方行政』で、最初はかなり武力が根底にあります、その次が『移民政策と産業奨励』、3番目が『懐柔政策と異民族同化』、4番目に『布教政策と住民教化』という形で、仏教を栄えさせるとかいろいろなことが出てくるわけです」

「前にも申しあげましたが、神武天皇崇神天皇は同一人物のようです、『日本書紀』を読みますと、それぞれ『始馭天下之天皇』『御肇国天皇』と書いてあって、どちらもハツクニシラススメラミコトと読み、初代天皇となっています、それをあとからいろいろな都合で、1人の方の業績を2つに分けて、真ん中に空位天皇を入れて、何とか延ばさなければならなかったという事情があったのです」

「神武のあと緩靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花と8代も入れたものですから、続く崇神朝を10代と直しておかなければいけなかったのに、編集のときにうっかり『御肇国天皇』と記録してしまったわけです、なぜそうしたかということも、中国人の占いの方法とかいろいろ理由があるのですけれども、今日はそれを話しだすと長くなりますので、省略いたします」

崇神朝のときに四道将軍の派遣があって、東海の方に武渟川別命が行き、北陸の方には大彦命が行ったわけです、その大彦命の名前が埼玉県の稲荷山古墳から出てきた鉄剣に書かれています、『日本書紀』よりも古い文字ですから、非常に重要な資料になります」

「『日本書紀』は奈良朝にできたもので、時間的にあとからつくったもんで、いろいろな齟齬があります、我々は考古学の材料で、もう一遍、古典をきちんと批判しないと間違えてしまうということもおわかりいただけるかと思います、まして大和朝廷は出来たての時期なのですから、具合の悪い話は除いて、都合の良いように編集するのはしようがないでしょうね」