入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月13日)から 「武蔵の開拓と国造」(大田区立郷土博物館長 慶応義塾大学名誉教授 西岡秀雄氏)〈2〉

「次の景行朝では、まず武内宿禰が東国を視察する、そして日本武尊の東征があり、景行天皇自ら巡幸される、その後、御諸別王が派遣され、5世紀に始めて那須国造が創設されています」

「成務朝に入ると国県制度を制定して、関東に15の国造が設置されます、応神天皇の時にまた3つ、国造がつくられ、仁徳天皇のときに下毛野国造が設置されるというように、関東平野がだんだん整ってくることがわかります」

「6世紀に入り、安閑朝の御世に『武蔵国造の乱』が起こるわけですが、その直前には九州で『筑紫国造の乱』が起こっています、これは歴史に明らかなように新羅筑紫国造をバックアップして大和朝廷に対抗しようというわけですから、完全に外国の勢力が日本の北九州を援助しているというのもわかります、その時代背景がわかってないと、武蔵の方もわかりにくいので、そのこともご承知おきください」

「7世紀に入って孝徳朝、大化の改新の頃、やっと東八ヵ国に国司が任命される、次の斉明朝になって初めて懐柔政策で百済人と蝦夷アイヌですね、この各100人余りに位をあげています、ここで完全に懐柔政策、異民族同化というのが始まってますが、このとき忽然と百済人が現れるのはずはないので、当然その前にたくさん百済の人たちが来ていたわけです」

「しかも、唐に負けて百済の人が日本に入ってきた、百済の歴史をお調べになればすぐにわかりますが、その前に任那に日本政府があったのですが、任那をわざわざ割譲してまで百済を助けてやるということがありました」