入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月13日)から 「武蔵の開拓と国造」(大田区立郷土博物館長 慶応義塾大学名誉教授 西岡秀雄氏)〈3〉

「そういうことで百済大和朝廷は大変仲が良いというか、親密度を増していたということがあります、さらに百済の貴族階級が、唐に追われて日本に来ますから、かなり質の高い文化をその人たちが教えてくれたこともわかります」

「人類学的にも百済人は、後の新羅人高句麗人に比べて、もっと雑種なわけです、雑種というと言葉が悪いかもしれませんけれども、南方のインドネシア人とか、いろいろな血が混ざっていることがだんだんわかってきました、そういうことで、まず最初は、日本側とは非常に密接な関係にあったということがわかります」

「天智朝になると百済人を東国へ移しています、東国の開拓にも百済人が出てくるわけです、次の天武朝に入っても百済人を武蔵国へ送り出して開拓にあたらせているということがわかります、これはまだ奈良朝以前の話です

「そういう移民政策や産業奨励があって、懐柔政策の対象として大唐人、つまり中国人や百済人、そして初めて高句麗高句麗人が出てきます、これらの人たちに爵位を与えたり、あるいは仏像や経典を置かせて仏教政策も行っているということがわかります」

「持統朝に入ると初めて新羅人を下毛野国に派遣します、そして、新羅人武蔵国にも置いたり、高麗人を常陸国へ置くとか、蝦夷人二百余名に爵位を与えています、それから、白鳳仏が入ってきます、例えば、東京都調布市深大寺の仏像は百済の仏さまですが、こういうものが当時入っています、仏教がだんだん浸透してくる時代になっているわけです」