2010-07-03 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月13日)から 「武蔵の開拓と国造」(大田区立郷土博物館長 慶応義塾大学名誉教授 西岡秀雄氏)〈4〉 「『武蔵国造の乱』から100年以上たちますが、文武朝のときに、砂鉄が採掘されるとか、新羅人(金上旡)が秩父で銅を見つけてくれるのです、それがもとになって日本で初めての貨幣『和同開珎』というのができましたが、あれは新羅の人の力です」 「そして、奈良時代の元明朝が終わって、元正天皇のときに高麗人が武蔵国の開拓にあたります、武蔵国のほぼ中央にある高麗郡のあったところ、今の埼玉県飯能市・日高町・毛呂山町・鶴ヶ島市・坂戸市の辺りには、高麗神社や高麗川のように『高麗』と付いている名前が沢山あります」 「あの人たちがどこからどう入ったのだろうかというと、一説には神奈川県の大磯を経由して船で北上したといわれます、『大磯』という言葉自体が『いらっしゃいませ』という意味の朝鮮語『オオイソーレ』だという説もあるくらいです、大磯には高麗山という山があって、その麓には高来神社もありますが、高麗人が通過したというか、しばらくは住んでいたのではないかと思います」 「その後、聖武天皇になって安房と常陸に流遠人、つまり罪人を流しています、それから、新羅人53人に姓を賜るとか、武蔵深大寺が創建されます、同時に国分寺の建立が行われます、そして、孝謙天皇のときに高麗人、百済人、新羅人らに姓を賜ります」 「さらに、淳仁天皇の時に新羅人を武蔵国へ、というような調子で大和朝廷としては、草藪で本当に茨郡と言いたいようなところを開拓にあたらせたのです」 「ご承知のように、韓国の人は洗濯が好きですね、多摩川の沿岸に砧という地名がありますが、『砧』は木槌で布を叩くときの道具で、その布は租庸調の『調』です、調布という地名、田園調布の調布、あるいは長いという字を書くところもありましたけれども、多摩川の沿岸が韓国の人たちによって開発されていったということが元にあるわけです」 「安閑天皇は6世紀ですが、それよりちょっと遅れて、百済人が入ってきて、あちこち開拓するわけです、ですから、かなり朝鮮の人たちの痕跡が日本中のあちこちに出てまいります、最初の百済人は壱岐や対馬に行って、それから関西の河内、和泉、大和に入ります、また別に肥後にも入っています、関西に入った人の中から一部が飛び出して、武蔵にも入ったのでしょう」 「それから、新羅人は対馬を通って吉備とか摂津にも入ってますが、出雲とか日本沿岸を能登まで行っています、あとは所々武蔵や毛野、陸奥の方まで入ってます」 「高麗(高句麗)人は大和の山城にも入ってますし、駿河から相模、甲斐、常陸というふうに、太平洋岸沿いに入ってきています」