入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [12]

野毛大塚古墳群では平成3年度(1991)の調査で、第1主体部(割竹形木棺・粘土槨)より中国製と考えられる内行花文鏡、および三角板革綴衝角付冑・長方板革綴短甲・頸甲・肩甲のセット、多数の刀剣、鉄鏃、盾など豊富な副葬品が出土した、その報告書で甘粕氏は、このような「武器・武具の副葬は関東において、古墳時代中期の革新的な武装がほぼ完全な形で導入された最も早い事例と評価され、被葬者の卓越した軍事力を示すものといえよう」と述べられている

そして「畿内王権は南武蔵の在地の勢力を利用して、軍事的拠点とする事によって関東における影響力を強化しようとしたのであろう」と考え、野毛大塚古墳以降も東京都世田谷区・御岳山古墳や朝光寺原1号墳と「南武蔵の首長に対して連続的に甲冑が供給されている事実からもうかがうことができる」とした

この考察では、『古代の日本』での甲冑の供給元とは全く相対することとなり、従って「野毛大塚古墳の造営が畿内の王権と極めて密接な関係のもとに行われたと推測せざるを得ない」という考えに至るのは当然のことなのだろう、氏の考えに大きな変化が生まれているようである

武蔵内部での国造の系譜については、古墳時代を通じて継続的に造営されたと考えられる大形古墳の編年を元に、「地方国家としての武蔵国の首長権が、国内の諸勢力の間を移動しながらも、中断することなく継承されていたことを示す」とした

しかし、「6世紀以降になると、北武蔵の埼玉古墳群の周辺に首長権の所在が固定し、世襲的に首長権を独占する武蔵国造家が存在した」と述べ、「5世紀から6世紀への移行期に、武蔵の首長権が変質する重大な画期があった」と考えた

そこで、埼玉古墳群の分析となるわけであるが、丸墓山古墳(日本最大の円墳・径105m)を航空写真から全長約170mで武蔵最大の「前期的な形態の前方後円墳」と想定した点や、同様に前方後方墳と墳形を想定した上、「金錯銘鉄剣」の出土がまだ知られていなかった稲荷山古墳(前方後円墳・全長120m)についての理解は、再考を求められる部分である

このような問題点の残る中で、稲荷山古墳における副葬品で「画文帯神獣鏡と環鈴・鈴杏葉の共存を、大和と上毛野の双方によしみを通ずる武蔵国造の立場を象徴する現象」とらえ、また、「上野の大古墳が畿内の大王陵型の前方後円墳であるのに対し、武蔵の最大級の古墳が柄鏡式前方後円墳(丸墓山古墳のこと)であったり、前方後方墳(稲荷山古墳のこと)であったり、野毛大塚古墳のように円墳であったりすることは国家的な身分秩序のなかで、上野の豪族に対し、武蔵の豪族が下位にランクされていることを物語っている」と想定した

そして、武蔵自体は、「上総や常陸の諸小国のような規模の地域政治集団を数多く内包した連合政権で、律令制下の国に近い規模をもった地方国家であった」と考えた

しかし、武蔵に「5世紀型の前方後円墳が見られないのは、大和政権による身分的な規制を直接反映したものではなく、上毛野君に対する統属関係の設定の結果、上毛野の側から加えられた規制の表れとみるべきであろう」と述べ、「上毛野君が武蔵国造の継承に干渉したことを伝える伝承」の背景とした