入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [11]

しかし、南武蔵が完全に上毛野の影響力の下にあったわけではなかった「6世紀になって野毛大塚古墳(等々力大塚古墳)の上流の狛江古墳群中に、畿内色の強烈な亀塚古墳が出現すること、畿内中枢部から直輸入された副葬品をもつ古墳があること」は、大和政権との交渉が続いていたことを示している、狛江亀塚古墳の被葬者は高句麗系の帰化人ではないかといわれるが、大和政権から出向いた人物とも考えられ、その結び付きは強い

同様な錯綜した影響は神奈川県横浜市・矢上古墳と野毛大塚古墳、および神奈川県横浜市・朝光寺原1号墳との間でもみられるとする、前者には「大和政権から地方首長に贈与される権威のシンボルであったと考えられる」大型倣製鏡が出土するが、後者からは出土せず「大和政権との結び付きが相対的に弱かったことを示す」と例示した

また、「野毛大塚古墳が上毛野の古墳文化の影響を全面的に受けて成立したとすれば」と断って野毛大塚古墳や朝光寺原1号墳の武蔵では最も早い出土例とされる甲冑が「畿内から直接もたらされたものではなく、上毛野勢力のもとにストックされた武具のなかから分与されたものと考えることもできよう」と、短甲3、眉庇付冑1、衝角付冑1をもち、鏡をもたない群馬県太田市・鶴山古墳例を引き合いに想定している

このような中から「この段階の武蔵国造の統属関係は、名目的には大和政権に服属しているが、上毛野政権に対してもよしみを通ずるという、一種の両属関係にあったのではなかろうか」と武蔵の立場を想定している