入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [10]

これら「関東地方の古墳文化の注目すべき地方色」は「本来、大和政権によって定められた国家的な祭祀」である「古墳祭祀を東国独自の内容とし、古墳祭祀を通じてくわえられている大和政権の規制を部分的に突き崩している点で、関東地方の豪族の政治的な成長をうかがわせる」としたのである

その上で、東国の埴輪に対応する資料として九州の石人、石馬をとりあげ、その文化圏が「大和政権に戦を挑んだと伝えられる筑紫国造磐井の勢力圏とまさに一致している」とし、「関東でも、上毛野君のヘゲモニーのもとに、上野・下野・武蔵の三国が連合して大和政権に対抗するという、基本的には九州の場合と性格を同じくする政治構造が存在したのではあるまいか」と「武蔵国造の乱」の背景を考えたのである

上毛野君の主導権はどのようにあらわれているのであろうか、「もし関東にも筑紫型の連合が形成されたとすれば、その時期はおそらく、毛野の古墳が最大化する5世紀中葉から後半に遡るであろう、この段階における毛野の古墳文化の影響を示すものとして、滑石製模造品の分布がある」と述べ、野毛大塚古墳と群馬県藤岡市白石稲荷山古墳のセットにみられる共通性、「特に厨膳具を中心とする特殊な模造品は、上野以外の関東では他に例を見ないもので、上野の製品の可能性が強いと」指摘する

さらに、野毛大塚古墳には、これまで南武蔵の古墳ではみることのできなかった「葺石がほどこされている点」からも「毛野的な様相」を指摘するのである、野毛大塚古墳に「突然変異的に現れた諸現象」は「いずれも上野の古墳文化の強力な影響のあらわれとして理解することができる」とし、その意味を「南武蔵の首長が、新たに先進的な上毛野国政治勢力の勢力下にはいったことの表現と見てよいのではないだろうか」と考えたのである、このような理解から「その後の鈴鏡の分布圏の意味」や「上毛野君の継承争いへの介入」が明らかにできるとしている