入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [9]

甘粕健氏は、「武蔵国造の叛乱」『古代の日本』第7巻・関東、角川書店、昭和45年(1970)で『横浜市史』の考え方を、さらに、推し進めている

まず、記事の信憑性については「『日本書紀』自体の文献批判からは、どちらとも言いがたい問題である」としながらも、「古墳の分布によって示される地方政治勢力の消長が、安閑紀の記事の内容とよく一致することが注目され、この伝承の背後には案外しっかりした史実があるのだということが推定されるようになってきた」と『横浜市史』の研究を位置付けた後、「多摩川および鶴見川流域は、前期古墳の分布では武蔵国内で圧倒的な優勢を示す地域であったが、不思議なことに後期古墳では有力なものができていない、これに対し北武蔵は、前期古墳の分布では南武蔵に比べて立ちおくれているが、その反面、有力な後期の前方後円墳も著しい分布が認められる地域である」とし、これらを「在地の政治勢力の繁栄と没落を反映したもの」と考えた

なかでも埼玉古墳群については「南の鴻巣市に笠原という地名が残り『和名抄』にも埼玉郡笠原郷が見えるから、埼玉古墳群は安閑紀の笠原直を名のる、武蔵国造家の奥津城であったと推定され、伝承の史実性を裏づけることができる」と述べ、「武蔵国造の乱」を肯定的にとらえようとする姿を明らかにしている

また、当時の東国の豪族については、次の2点をあげて、その政治的な成長を想定している

第1に「上野国を中心に六世紀前半ごろに流行したと考えられる鈴鏡の分布圏の中に武蔵国が含まれているが、それは「特異な祭祀形態によって結ばれた一つの文化圏を示す」と考えた、第2に、鈴鏡の盛行とほぼ時を同じく「形象埴輪群が出現し、異常な発達をとげること」をあげている