2010-03-13 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [8] 屯倉の設置された南武蔵では、5世紀の繁栄にもかかわらず、6世紀前半の神奈川県横浜市・瀬戸ヶ谷古墳築造後は大前方後円墳が見られなくなると述べ、「このことは南武蔵に1世紀にわたって盤踞していた豪族の勢力が6世紀において打倒されたことを示すかのようである」とし「小杵は南武蔵を本拠としていた豪族であったかもしれない」と考えた その反面、6~7世紀にかけて大前方後円墳を中心に形成された埼玉県行田市・埼玉古墳群については、近くに後の笠原郷の置かれたことも加味して、「勝利した笠原直が北武蔵を本拠にしていたことがうかがわれる」と述べている、さらに「武蔵国造がヤマト政権に対する従属の度を強めつつも専制的な地方権力として独自の発展をとげたことは、6、7世紀の北武蔵の古墳文化の示すところからも明らかである」と状況を分析している