入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [7]

武蔵内部の変化については、6世紀になって埼玉県行田市・埼玉二子山古墳や同東松山市・将軍塚古墳など「それまでみるべき古墳のなかった北武蔵に有力な古墳群が形成されはじめ」、「5世紀における南武蔵の圧倒的な優位が崩れたとみるべきであろう」と述べている

しかし、5世紀中頃ないし後半の築造と考える東京都世田谷区・野毛大塚古墳や6世紀代とする東京都狛江市・狛江亀塚古墳を造った「新興の勢力」が南武蔵にも台頭し、「武蔵全土に力のみなぎった時期である」と考えた、そして、「武蔵国造の継承戦は、武蔵国内からみれば、これら新旧の勢力が武蔵一円の強固な統一政権のもとに再編成される過程であった」と位置付けたのである

さらに、「その過程で旧来の国造の権威は否定され、争乱に勝ち抜いた諸豪族は、新しい力関係に基礎を置き専制的な支配者への方向に一歩を進めた国造のもとに結集することになったもの」と想定し、小杵のとった行動も、このような豪族にあったであろう「ヤマト政権の支配を排除しようとする動き」を反映しているとみている

武蔵国造の乱は、「盤井の乱」のように一地方の全勢力によって大和政権に対抗した反乱ではなかったが、このことは武蔵の豪族が「統一的支配を確立しようとして到達した段階の相対的な低さを反映している」と考え、この地域における独立性のひ弱さを指摘している、大和政権の援助によって使主は小杵を倒し、その謝礼として屯倉を献上するが、「日本書紀」に記された喜びの表現には「かって見ない統一的な支配者に成り上がったことに対する豪族の喜び」があるとみるのである