入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [19]

各地域を比較検討して

(イ)「4世紀の古墳が卓越するのは南武蔵の多摩川流域で」全長100mの前方後円墳が存在することを示し、これと「ほぼ同じ頃に」北武蔵に山の根古墳(前方後円墳)があり、同様に上毛野にも各地域に前方後円墳があることから、「4世紀後半の南武蔵の卓越性は、従来言われているほど顕著なものではない」と指摘しています

(ロ)5世紀前半・中葉に上毛野では大形前方後円墳が築造されるが、これらの中には2重周溝や長持ち形石棺といった大和政権の大王墓と同等の古墳が存在することに注意している、そして、「この頃の上毛野の雄族は一つではなく、太田天神山古墳を要としながらも、高崎、前橋・伊勢崎、太田の3地域に鼎立していた」と上毛野連合政権を想定しています

(ハ)「5世紀後半、それまで顕著な古墳がつくられていなかった埼玉地域に丸墓山古墳、あるいは稲荷山古墳が築造される」と述べ、稲荷山古墳は同時期の前方後円墳(上毛野の丸塚山古墳・不動山古墳・鶴山古墳等)の中でも「周濠をもつ点で優位にある」ことと「粘土槨・礫槨であり、異なった様相をみせ」るとしています

(ニ)6世紀の埼玉古墳群に匹敵する古墳群として、井出川流域の保渡田・綿貫の古墳をあげ、ともに2重周溝をもつ100m級前方後円墳が継続するという共通点を指摘しています、しかし、周溝形態と埋葬施設に相違があることから「それぞれ独自の勢力」と位置付けし、また「上毛野の各地域集団は6世紀を通じて勢力を保持している」とし、6世紀後半に七興山古墳と観音塚古墳という規模の大きな古墳が出現し得たことを裏付けようとしています

以上のような点から、武蔵国造の乱の鎮圧された(534年)「6世紀前半に古墳群が断絶するが、著しく規模を縮小する例は認められるであろうか、武蔵・上毛野を通じて該当する古墳群は全く認められない、つまり、安閑紀元年の記載は、そのまま史実と認めることはできないと、きっぱり結論付けています

そこで、「争乱があったという伝承が安閑紀元年条に仮託された、とした場合」はどうかとし、「5世紀後半に古墳造営に影響を及ぼす事件があったことを思わせる」と指摘し、「争乱があったとすれば」この時期とするのが妥当であるとしています

そして「武蔵地方がのちの武蔵国の範囲と一致していたかどうかは明らかではない」と断って「勝者と敗者の古墳を探り」候補として、多摩川流域、比企丘陵、児玉地方の古墳群をあげ、いろいろな組合せを想定する