入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [20]

(1)「武蔵地方をかりに北武蔵に限って考えれば、比企と児玉の争いが想定しうる、その場合、勝者は比企であり、敗者は児玉であろう」と、野本将軍塚古墳以降も前方後円墳が継続していることを根拠に示している、また、「比企は4、5世紀を通じて前方後円墳の地域であり、児玉は墳丘土量でまさる大型円墳をつくり、弥生時代後期以来、上毛野と共通の土器文化圏にあることも伝承の背景として考えることができる」としている

(2)「武蔵地方がのちの武蔵国の範囲であれば、従来いわれているように、多摩川流域の古墳が敗者にふさわしい」とし、「その場合、勝者は比企を前面とする比企・児玉連合と考えることも可能」とした、しかし、ここで多摩川流域に前方後円墳が「6世紀になっても復活しない」としたのは誤りで、浅間神社古墳・観音塚古墳などの存在は、この考えに修正が必要となるとしている

(3)さらに、多摩川流域が勝者となる場合を考える、それは「いずれにしても、埼玉には氏祖の領域を擁して闘うべき豪族は存在していなかった」からで、「埼玉古墳群形成者が武蔵のいずれかの地からの移動してきたものとすれば」「多摩川流域を故地と想定せざるを得ない」ということになるからである

しかし、この場合「勝者の主族は敗者の領域に移り住み、大古墳群を形成したが、かっての本拠地には有力な古墳が認められない」「敗者に相当する比企に野本将軍塚古墳以下の古墳が築造され続ける」という矛盾が生じる、だが、「かっての本拠地」に前述のとおり前方後円墳が継続的に造られていることを思い出すなら、これは大変興味深い説ということになる

(4)埼玉古墳群形成者を上毛野からの移動とするには、周溝形態・埋葬施設の点で伝統的に異なり「ふさわしくない」ということで「武蔵・上毛野地方の豪族でないとすれば、長方形周濠で共通性をもつ大和の豪族が浮かびあがってくる」と考える

ただし、「大和には長方形2重周濠はないし、礫槨も主な埋葬施設ではないのがこの想定を弱めている」としながら「稲荷山古墳出土袴帯金具が型式学的には新山古墳の類例に近い」ことなどをあげて、両者を関連付けることに希望を託している、また、稲荷山古墳出土金象嵌銘鉄剣について、その「被葬者は大和政権が武蔵の争乱に介入したときに派遣された武人であり、その時に辛亥銘鉄剣を携えた」という可能性も想定している

上毛野がいかに武蔵国造の乱に関わったのかという点については「太田天神山古墳後裔者を盟主とする上毛野連合が大和政権(埼玉古墳被葬者)と闘い、敗れたのであろう」としている、そして、「上毛野と北武蔵は、もともと樽式系土器・石田川式系土器の分布地域として、また前方後方形周溝墓の卓越する地域としての共通の文化圏を形成しており、5世紀には上毛野が古墳規模において圧倒的に優位に立っていた」と、注目すべき指摘をしている

この指摘については、渡辺貞幸氏が「辛亥銘鉄剣を出土した稲荷山古墳をめぐって」『考古学研究』99、考古学研究会、昭和53年(1978)で「当時、利根川の本流は、今よりずっと埼玉古墳群寄りを東南に流れていたと考えられるので、特に群馬県南部の古墳群とは、水系的に密接な位置関係にあったことが窺える」と述べています、埼玉古墳群を理解するためには忘れることのできない点として記憶に留めねばならないと思われます

武蔵国造の乱は「実質的には上毛野領内のこととして処理されるはずであった」が「大和政権の武力介入によって上毛野豪族連合は一旦は敗退」することになったのであると説明する、とはいえ、上毛野は「潜在勢力は保持しつづけ」「7世紀には整美な石室をもつ大型方墳を出現させ」「埼玉古墳群ではなし得なかった」大和政権と共通する「王墓の方墳への転換」を実現させたと、その力量を評価しています

以上、石野氏は各地域の消長の分析を通して『日本書紀』の記事を、大変明快に、考古学的に批判しています、また、上毛野と埼玉古墳群の関係を一つの文化圏の中でとらえ、武蔵という地域についてのまとまりへも重要な視点を示したといえるでしょう、甘粕氏説によれば敗者小杵の本拠地とされた多摩川流域を、勝者とする場合の想定も、大胆な説と簡単にかたずけられない内容をもっていると思われます