入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [6]

まず、武蔵国造の乱は「盤井の叛乱に引きつづいて起こった全国的な争乱の圏外にありえなかったことを示しているが、ここでは屯倉設置のきっかけがヤマト政権と、武蔵の豪族との直接の闘争としてではなく、武蔵内部の豪族の国造継承の争いに上野国とヤマト政権が介入するという複雑な形で現れたことは注目すべきである」と述べ、その特徴を指摘している

大和政権にとって上毛野は「北関東の半独立的な大勢力」「全国支配途上の障害物」でもあった、これが後ろ盾になって武蔵に「統一的な地方政権が生まれること」は「少なからぬ打撃であったにちがいない」と考え、その首謀者である「小杵のひととなりのなかにみずからも専制的支配者になり上がろうとする地方豪族の反抗的な側面が代表され」また「東国豪族の成長を見るべきであろう」としている

これに対して、「東日本最大の前方後円墳群馬県太田市・太田天神山古墳の存在をあげて「6世紀のはじめにはおそらくかなり強力な地方国家を形成していたと思われる」上毛野の「諸豪族」にとっては、これまで「有力な政治勢力の成長がなく」、「ヤマト政権の北進から上野を守る緩衝地帯をなしていた」北武蔵の新しい勢力として、「自己の安全のために南隣に出来るだけヤマト政権に対して独立性の強い、またできれば自己の影響下にある地方政権が誕生することが望ましかったにちがいない」と考えた

「しかし上毛野君の志とは逆に、争乱の結果武蔵に対するヤマト政権の支配は一層強化され」ることとなったわけである、その結果として、安閑天皇2年の条に記されている上毛野国の緑野屯倉設置を取り上げ、「武蔵の争乱に関係した賠償として自己の領土の一部を割くことを余儀なくされたもの」と指摘した