入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[5]

朝鮮半島への進出は、任那(みまな)が滅ぶことにより結局失敗に終わるのですが、その過程で知ることのできた中国大陸・朝鮮半島諸国の進んだ政治組織は、大和政権を中心とした体制作りに大きな影響を与えました

その独自な制度が「氏姓制度」であったと考えられます、これにより、大和政権を背景とする身分を明らかにし、特定職業の独占的世襲をはかり、人や土地の管理体制を確立していきました

中央政府は、大王と大臣・大連を中心とし豪族(政治的・社会的・経済的な権力と組織を持ち、地域を支配する有力氏族)の長によって構成された「朝廷」と呼ばれます、また、地方の政治は、この大和政権によって任命された「国造」と呼ばれる、その地の有力豪族が執り仕切ることが多かったのです

従って、必ずしも大和政権の豪族(役人)が直接治めるわけではないため、いくつかの地域では、大和政権に反乱を起こすことさえあったのでしょう、これが6世紀前半頃とされる筑紫国造(磐井)や、武蔵国造の乱であったのでしょう