入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[4]

5世紀になると、畿内では応神天皇陵古墳(全長420m)や、仁徳天皇陵古墳(全長486m)に代表される巨大前方後円墳が造られるようになります、その副葬品には、祭祀的な宝器に変わり滑石製模造品(武器・武具・装身具・鏡・農工具・厨膳具・酒造具・船・馬・人形等を滑石でまねた模造品)が多くみられるようになり、祭祀の内容が変化したことを思わせます

また、大量の武器・武具、そして金銀またはその渡金を施した華麗な装身具・馬具なども副葬されるようになります、これらの特徴は、首長の性格が祭祀的司祭者から政治的支配者としての武人へと変化したことを示しているのでしょう

中国の晋書・宋書などには、5人の倭国王が413年から478年までに、少なくても9回、あるいは11回にわたり中国南朝に使いを送り、貢ぎ物を捧げたことが記されていますが、このような大王(天皇)が活躍の場を広げた時代でもありました

倭の五王が中国へ使者を送った目的は、朝鮮半島での日本の立場を有利に導こうとすることにありました、つまり、首長の性格の変化は、朝鮮半島への進出とも呼応するもので、戦闘を伴う軍事的交流は、武具・武器を強力にし、乗馬の風習を広め、馬具を実旋的に変化させました

また、帰化人の渡来は、これまでの土師器に比べすぐれた須恵器の製法を伝え、日本全土へと広めました、この須恵器用窯は埴輪生産にも利用され、多様な形象埴輪が大量に作られるようになり、埴輪祭祀が発展して行きました