入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー125

次いで、渋川氏と武蔵の関係で注目すべきは、渋川幸子による豊島赤塚郷の京都鹿王院への寄進でしょう、元来赤塚郷は足利直義建武政権から勲功の賞として与えられた所領の一つで文和元年(正平7、1352年)直義の死後は、正室の渋川頼子(義季の妹)に譲られ、頼子(本光院)の死後は姪の幸子に引き継がれました

この赤塚郷を如春(じょしゅん・幸子)は甥の義行死後間もない唐暦元年(1379年)6月に夫義詮・宝篋院殿(ほうきょういんでん)の菩提と自身の後生を弔うために、かねて崇敬していた春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の住する鹿王院へ寄進しています

幸子は義季の女(むすめ)で義詮の正室となり、観応2年(1351年)男児を生みましたが早逝し、以後子宝に恵まれず、紀良子の生んだ義満を養育しました、そして、その義満を夫の死後三代将軍に立てたため、義満に重んじられ、幕府内に大きな勢力を持ち「大御所渋河殿」と呼ばれました、義行の九州探題登用に力を尽くしたことは前に述べた通りですが、夫義詮の死後は出家し、表だった動きはしなくなりますが、依然として専制将軍も一目置く存在でした

康暦年間(1379~81年)以降は宗教面での動きが目立ち、鹿王院への所領寄進はその一例で、その年は夫義詮の十三回忌に当たっていました、永徳3年(1383年)2月29日には、石成を含む赤塚一円を鹿王院に再寄進しています、このため、その後の足利将軍や堀越公方も赤塚郷を鹿王院領として確保に努めましたが、文明9年(1477年)以降、太田道灌と結ぶ千葉氏によって横領されました